げんろんのじゆう

人生は与えられたカードでの真剣勝負

素うどんとノートに学んだこと

自分の意思を正しく表明できないことはかっこ悪いということ。

 

小学生の頃、友達何人かとそれぞれの親と出かけた夕食の席で、〆に素うどんが出たことがあった。

友達が「俺はネギはいらない!ネギ抜きにして!」と言うので、何となく釣られて「僕もネギ抜きで」と言ってしまった。実際にはネギは好きで入っていた方が嬉しいくらいだけど、日頃皆の中心にいる友達に何となく合わせた方が、あるいはちょっと文句のひとつでも垂れてみた方がカッコイイ気がしたのである。

母親たちには「好き嫌いしないの」「またわがままばっかり言って」「妹の◯◯ちゃんは普通に食べるの?小さいのに偉いわねえ」と散々に言われながら、僕はネギの香りのしないうどんをすすった。何の味もしなかった気がする。

 

その一年後くらい、今度は塾の先生について別の友達と話していたとき、周りの何人かが「××先生の授業ってめちゃくちゃノート取らせるし、細かくてめんどくさいよな!」という談義で盛り上がった。僕はその先生特有の細かく整理されたノートを組み立てるやり方も、そのように黒板を書き写す作業も割と好きだったけど、水を差すこともできず一緒になって笑った。

翌週、別の友達と帰っていた時に「××先生の授業ってノートめんどくさいよね!」と話題を振ってみた。皆が笑っていた話題だから無難だろう(共感してくれやすいだろう)という理由と、うどんのネギよろしく「少し文句を垂れるくらいのがカッコイイ」と思っていたからである。

果たしてその友達は、「えーそう?俺は結構好きだけどね」と爽やかに笑ってかわした。戦うつもりもないのに完敗だった。

 

自分の気持ちを歪めることは簡単だけど、かっこよくはないということを学んだ話。

何ならきっとネギ嫌いの友達や板書を面倒くさがる友達が魅力的に映ったのも、素直に自分の気持ちを表現してたからなんじゃないだろうか。それをおバカな僕は、ちょっと逆張り感のある反抗的なところがイケてるなと勘違いしてしまったのである。そもそもワルさみたいなものって誰かの真似をしている時点でかっこよくはないんだけど、そんなことに気づけるほどの頭もセンスもなかった。

 

自分の好きなものを素直に好きと言えるようになったのは、高校生か大学生になってからだったかもしれない。

ただよく考えてみると、反対に年齢が上がるにつれて素直な気持ちを言いづらくなった部分も少なくない。特に会社に入ってからは。現実や時間って何とも無情だな〜

 

人生あるいは仕事においてやりたいこともありたい姿も見つからない今、色々な気持ちを取り払って自分の気持ちに向き合うマインドを取り戻すのが大事だったりするのかもしれない。

ただし面倒くさいというのも正直な気持ちなので困りもの。誰か助けてください…