げんろんのじゆう

人生は与えられたカードでの真剣勝負

ゲーム脳

そんなに悪いことでもないと思うんですけどね。

 

僕は自分のことをゲーム脳だと思ってるのですが、ひと昔前にそういう言葉が叫ばれてから世間での風当たり結構強いですよね。何なんですかね。

てかゲームって色々あると思うんですけど、ここではアナログでないテレビゲーム・ビデオゲームのことを指してるのはまあ自明としても、だいたいゲーム機かRPGのことを指してるの面白いですよね。格ゲーとかリズムゲームとかに当てはまるような解釈も探せばあるんでしょうか。

 

そういえば犯人がアニメ好きだった!みたいなクソ報道を未だに目にしますけど、京アニの事件でいかにアニメ好きが多いかとか伝わったんですかね。まあ僕アニメそこまで好きでもないし、アニオタのこと嫌いじゃないけど悪い意味じゃなくキモくはあると思ってるんですけど。各所から殴られそうな文を書くのもたまにはいいですね。

ちなみに僕はゲーム全般好きですけど何のゲームも特別上手くも強くもありません。強いて言えばポケモン頑張ってた時期もありましたが、数年間は実質お休みしています。

 

ゲーム脳って言葉にはもしかしたら語弊があるのかもしれませんが、典型的なやつで言えば、僕は「今日一日をリセットしたいな〜本気でリセットボタンあればいいのにな」みたいなことはちょくちょく考えます。でも別に人生をリセットする気はないし、それは僕が客観的に恵まれた人生を歩んできたからというのとはまた別の理由で、リセットできたらいいけど無理なの分かってるしやるしかねえなあと、そういう気分になったりならなかったりします。

ちなみに自殺については怖い&もったいないからやらないけど、別にやろうと思えばいつでも人生のスイッチ切れるんだしこれくらい何とかなるやろみたいな、そういうアバウトなポジティブさの種にしています。根幹のスタートはネガティブな気もしますが、まあどっちでもいいですね。

 

ポジティブといえば、経験値って考え方は努力や苦労を無条件に肯定してくれるいい概念ですね。以前別の記事で「全ては対価の交換に置き換えられ、時間と手間を売って経験を買うのだ」みたいなことを常日頃考えてるということを書きましたが、言いたいことの根っこは同じです。昔からある言葉でしょうけど、ドラクエとかポケモンとかやってるだけでそういう概念に出会えるのは、美味しい時代に生まれたなあと思います。

悪い経験、例えば会社でミスした時も睡魔や酒に負けてタクシーに大金落とした時も「これも経験だ」って思えるのってマジで強いです。あんまりストイックすぎる人がこれしてると鬱になりそうですけど。もちろん良い方の面でも、部活でがっつり青春して全国優勝した時はこれに勝る喜びはない、この経験はほとんどの人には絶対味わえないやつだ!と思えましたし、そう思えたことそれ自体にも価値があると思いました。

てか人生はある程度の年数生きてたら他の人と全く同じとかあり得ないので、よく考えたら別に優勝してなくてもそれはそれでオリジナルないい経験ですよね。「私の高校時代とか普通すぎてつまんないよ」とか言う人もいますが、それで得た経験値もとい経験知はその人だけのものだなと思います。

 

そもそも、「普通」って何が悪いんでしょうね。よく「一度きりの人生なんだから〜」と言って野望を語る人がいますが、「普通」の人生を生きたこともないのにそれを回避しようとしてちょっと尖った人生を目論むのって何かズレてる気がします。初めて行ったラーメン屋で定番とかおすすめのメニュー選ばないタイプなんですかね?理解はできるけど、多少の苦しみが伴います。

人と違う事情や体験は当然僕にもたくさんありますがそれはそれとして、実は昔から「一度しかない人生なんだから、僕が思う『日本人のスタンダードな生活』を送る人生を生きてみたい」という考えを密かに持っています。だから中高生の頃から将来の夢は「サラリーマン」でした。なかなか共感はされないんですけど、これ聞いてニヤッとしてくれる人とはやっぱりだいたい気が合いますね。

でも他の人にはできない珍しい体験であったり「特別」なことを成し遂げたいという気持ちは、それはそれで素晴らしいことだと思います。世界を変えてきたのは大部分そういう人たちですしね。その裏で世界を支えてきたのは大勢のモブの人たちなんですけども。

 

また、人間であれば他人の体験を伝え聞くことによって一種の追体験はできるわけで、もちろん本質的な理解には達しないことが多いまでも、サンプルがいくらでもいる「普通」の人生なんてわざわざ生きなくても何となく分かるし、だったら違う経験したいって思考も共感できます。

僕は見られるもの全部見たい・味わいたい人間なので、人生にリセットとかお試しとかないのがすごくもったいないなって気がします。RPGで分岐ルートまでしっかり見たいタイプですし、道が二手に分かれてたら不正解ルートっぽい方から行くタイプです。メニュー豊富なお店に入ったら全部一口ずつ食べたいタイプとも言います。

そういう意味では本を読むことやドラマを観ることが僕にとっての「複数の人生を体験する」こととして機能しているのかなと思います。割と格安ですしね。

 

でも結局は一度しかない人生なので、生身の自分ではとれる選択肢は常に1個ですよね。する/しない、行く/行かない、一部して一部はしない/両方とる… 当たり前ですが、「行動をとらない」というのも行動の内です。

ライフストーリーという言葉があるように、僕は自分の人生を一個の物語だと見なしている節があって、主観とは別に常に俯瞰の自分がいます。だから、理性なんて知らねえよ!って判断して動くことはあっても、理性が働かなかったと思った経験はあまりありません。何かこれ将来犯罪でもしたときに不味そうな文章ですけど、まあしないだろうからいいでしょう。

そういう視点に立つと、どっちかといえば物語に動きがあった方が面白いなって思考になりますよね。なりませんか?なりますよね。もちろん人に迷惑かけるような行為は別で、動きはあるけど面白くないというか、快でないのでNGです。

大学2年生の時にこの思考に行き当たって、「迷ったら面白そうな方を選ぶ」、もっと言えば「迷ったらストーリーに変化を起こしそうな/イベントが見られそうな選択肢を選ぶ」ことを信条にするようになりました。ギャルゲーで女の子と「一緒に帰る/帰らない」の選択肢が出たときに後者を選択する人間は何のためにゲームやってるんだろうって話ですよね。まあ僕ギャルゲーやったことないんですが、言いたいことはそんなようなことです。

 

平たく言えば積極的になることを心がけただけなんですけど、そういう言葉を自分の中に落とし込みやすい形に変換・具体化するだけで結構響くところはあるものです。また、優柔不断な僕にとってはこういう行動指針を設けることが擬似決断力になりました。

当たり前ですけど周りの目やキャラ付けというのは、基本的には言動によって規定されます。そうなると不思議なもので、あいつ意外とフットワーク軽いぞとなると、人から色々誘ってもらったりそこでまた知り合いが増えたりして、どんどん物語のとり得る幅みたいなものが広がっていくんですよね。キャラクターや背景の追加によってストーリーの分岐が増えるみたいな。主観的な意味とメタ的な意味の両方で、そういうの面白いなあと思って過ごしてました。

 

ただ社会人になってからは、無理に誘いに乗らないようにしています。会社の上の人と飲むのは気を遣うだけで楽しくないことも多いし、そもそも大学時代と比べて休日やプライベートな時間が大きく削られてるのにそこに時間割けないという問題も大いにあります。

時間と体力・気力、最低限以上のお金、そして楽しく過ごさせてくれる友人・知人に恵まれていた学生時代とはちょっと事情が変わったということですね。ただ、人脈の広がり方やできることの幅(社会的立場や金銭面の意味で)という点で言えば、社会人の方が学生よりメリットを享受しやすいかなとも思うので、余裕か覚悟ができたらまた活発にいきたいと思います。

 

ただ、やる/行く/全部選ぶ みたいな積極的選択肢を選ぶことが最良なのかと言われればもちろんそんなことはなくて、それは行動によって失敗することや裏目に出ることがあるのとはまた別に、「選ばなかった場合」の自分を想像することしかできないからです。さっき「選択肢は全部のパターン見たい」みたいなことを書きましたが、それができない自分って本当に不便です。常に良い選択肢を引きたいというよりは、単純に気になるってだけなんですが、それはパラレルワールドと行き来できるようになるまでは厳しそうですね。

その意味で人生は不可逆なので、結局は選んできた道筋の先につくられる自分に至るしかありません。「毎日をより実りある日にして最高の人生を送る!」という言葉では非常にアバウトですが、要するに、僕たちはなりたい自分・ありたい自分というものに向けて、日々の行動という無数の選択肢の中から任意のチョイスによって自分を形成していく作業を日々行っていると言えるでしょう。もう少し僕なりの言葉に近づけると、自分のストーリーをいかに演出していくか、といったところになるでしょうか。

 

そういったことを考えているだけで、実際には失敗したり後悔したりの多い人生ですが、それでも僕は僕のことが好きなので(そして自分に甘いので)、自分のライフストーリーも割と好きです。これ言うとナルシストだと思われることも少なくないんですが、厳密には違くない?と思っています。

反対に、自分が好きな自分であり続けるために、自分のことを嫌いになるようなことは極力しないようにしています。例えばいじめとか浮気とか、それをしたら自分の人生=物語が汚れるような気がするんですよね。先程述べた通り人生は不可逆なので、いつからでもやり直しはきく反面、過去を塗り替えることはできません。まあ人に言えないことや他人がしてたらドン引きするようなこともいっぱいしてますが、その辺は自分に甘いので許容しています。

あと全然話がそれますが、僕は自分の黒髪が好きなので髪を染めたことはありません。地毛の黒髪と黒染めの黒髪は似て非なるものなので。これもまた不可逆で、人生と本質としては似てるのかなと思います。人生って何にでも例えられるからいいですよね。

 

あとここ蛇足なんですが、自分が自分のライフストーリーの主人公という意味でいうと、他の人って愛情如何によらず、全員自分の人生にとっては脇役かモブキャラなんですよね。家族でも親友でも恋人でも恩師でも。だから僕にとっては世の中に自分と他人しかいないんですけど、よく母親に「家族なんだから他人とか言わないでよ!寂しいじゃん」と言われて、お互いの他人の定義がズレてるなあと感じます。

まあこのくだりについては、社会がどうとか知覚がどうとか言い出したらこれだけでももっと語れる気がするので割愛します。ちなみに『僕のヒーローアカデミア』で似たような認識が出てきたときは感動しました。あと別にここで言う主役とか主人公は別に目立ったりヒーローになれる人である必要はないので悪しからず。

f:id:genuinegen:20190731205129p:imageヒロアカはいい漫画だ…

 

とまあ、(半分意識的に)今までで一番ぐだぐだ書いた文章でしたが、結局僕にとってのゲーム脳とは、「人生をリセットの効かないRPGだと捉えている」というようなところになるのでしょうか。
日頃考えていることをつらつら述べたのに、こんな簡潔な一言に集約できるとは、この文章を書くまで気づきませんでした。やっぱりアウトプットって多かれ少なかれ大切なんですね。

 

 

仕事もゲームみたいに分かりやすくレベルアップするといいな。

おわり