げんろんのじゆう

人生は与えられたカードでの真剣勝負

新型コロナと春の別れ

春の陽気に散歩へ出かけられないのがこんなに寂しいとは。

 

世間は新型コロナウイルスでてんやわんやしていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

アクティブな余暇を過ごせず、勉学や勤務すらもまともにさせてもらえないという人も多い中で、僕も例に漏れず(とはいえ岡山県は遥かにマシな方ですが)不自由な生活を強いられています。

それでも3月半ばギリギリまで遊んだりしていた方ではあるのですが、コロナに余計な仕事を増やされてイライラは募り、在宅勤務にさせられてもやれる仕事が少なくてだらけてしまい…と特に良いことはないです。もちろん減った仕事もありますが、プラマイで言えば負担の方が大きい形です。

 

個人的な悩みとしては、余暇が大きく制限された・仕事が増えたことに加え、マスクが入手困難になったことにキレています。花粉症は人を殺さないけど苦しめはするということを、ともすると忘れそうになります。

あと99%くらいの確率で東京の本社へ夏(7〜8月)異動になる予定だったのですが、まったく見通しが立たなくなりました。うちの会社は内示が死ぬほど遅くて正式な辞令の2週間前切ったあたりで言われます。他社がどのくらいかは知りませんが、この話をしてて「うちも!」と言われたことはないので多分遅いです。というか絶対評価として遅い。他社なんか関係ないわ。とはいえ気付いたら社会人3年目に突入してたので、上の気持ちもちょっとだけ分かっちゃうようになりました。

 

 

まあそんなことはどうでもよくて、よりによって春にこれが蔓延したということの辛さについて書きたかったんでした。世間が〜、社会が〜という話ではなく、(主に学生の)出会いと別れの季節としての「春」にです。特に別れの方、主に卒業式についてです。

 

日本では春は卒業シーズンであり、これを機に一生会わなくなってしまう人も少なからずいるのが現実です。僕は人との縁ひとつひとつに大変愛着を持つ性格なのですが、どうやらそれは人並外れているかもしれないということに気付いたのはここ数年のことでした。

僕は自分の人生に登場したことのある人すべてを(隣人愛的な意味で)愛しているので本当は誰にでも人生の中で永遠に再会し続けたいと思っています。誇張ではなく。ちなみにここで言う「再会」は、必ずしも物理的な接触を意味しません。

それが例え嫌いな人間であっても、その人とのかかわりは僕の人生に動きや彩りを与えるものであることは間違いないので、ないよりはマシだと思っています。理解しにくいという方は、「愛の反対は無関心」を上手くひねって使ってみてください。

ちなみに、保育園や小学生の頃の友達や先生とかは言うまでもなく、高校の時数回だけ仲良く話した人とか、一回だけ家に来た親の友人などでも、今もそれなりの頻度で懐かしく思い出すことがあります。思い出せる人しか知覚できないだろ!というツッコミはやめてください。

 

とはいえ現実はそんな易しくはなくて、「永遠に友達」「ずっと忘れない」くらいならまだしも、「また遊ぼうね」「卒業してからも連絡取ろうね」なんていう約束は往々にして裏切られがちです。あるいは最初から社交辞令です。

それでも僕が割り切って何とかやれているのは、自分のライフステージや生活基盤が変わることを理由に自分を納得させられているからだと思います。簡単に言えば、小学生になったから、中学生になったから、習い事をやめたから、どこどこに引っ越したから…というようなきっかけが明確にあったからです。

 

卒業式や送別会というものには、それをより強固にするための儀式的な側面があります(その最たる例がお葬式ということになります)。お互いそうと言わずとも、「今までのようには会えなくなるんだ」、もっと言えば「これがこの人と会って話す人生で最後の機会になるかもしれない」という実感、あるいは予感を胸に秘める時間をくれるような。

これ自体が切なく、だからこそ貴いと思うのですが、そこまで無理やり言語化しなくとも普遍的に感じられる共通の感覚はあると思います。この感覚は当然経験によって形成されるもので、だからこそ幼稚園の卒園式では実感がない子か大泣きする子のどちらかに分かれ、歳を経るごとに寂しさは増すのに別れを受け入れる耐性がついてきます。

 

これは完全に余談ですが、一般に超多義的に用いられる「エモい」は、卒業などの際に感じる感情に一番近いと個人的には思っています。前向きな切なさやノスタルジーを凝縮した or 切り取った感じとでも言うのでしょうか。卒業式は言うまでもなく、夏の夜に遊んだりしている時間なんていうのも、貴重な青春の1ページであることを感じさせるからこそ、儚さがあってエモいと思います。これずっと語ってたら枕草子みたいなのできちゃいそうですね。いずれにしても夏は夜。

さらにひとつ余談を重ねると、僕は「私、エモいって言葉嫌いなんですよね!」という後輩の子の発言でこの言葉に出会いました。知りもしない言葉がいきなり嫌われてて笑ってしまった。

 

本題に戻ると、コロナの影響で多くの人が明確な"卒業"のタイミングを奪われたことが個人的には本当に悲しいというか寂しいというか、やるせなく感じます。

「え、これで終わりなの?」って、何だかやりきれなくないでしょうか。僕は大学の卒業式とサークルの最後の大事な大会の日程が被っていることを知った時、どちらかを明確な場を持たずして捨てることにどうしても決断できませんでした。最終的には日程がズレたおかげで両方参加できたのですが、おそらくどちらかを切っていたらどちらにせよ一生引きずり続けただろうと思います。

 

高校や大学の卒業は基本的には一生に一度のもので、ライフストーリーにおいては(万人がそれに魅力を感じるわけではなくとも)非常に貴重なイベントです。僕は3.11の震災で中学校の卒業式が中止になりましたが、中高一貫校だったのでそれほど気にはなりませんでした。でもそのタイミングで外部に進学した子も数人はいました。バイバイを言うことはありませんでしたし、最後に話したタイミングも思い出せません。

それでも現代にはSNSがあります。便利な世の中ですね。上述の高校から外部進学してそれきり会っていない子や、小学校時代にはほとんど話さなかった子ともFacebook上では「友達」ですし、一度Skypeで話しただけの友達の友達ともTwitter上では相互にフォローし合っています。縁を切らさないことも、切れたはずの(切れるであろう)縁をつなげることもできる訳ですね。

 

でも、SNSによるつながりも半永続的なものではありません。友達が突然転校してしまうように、あるいは突然事故に遭って死んでしまうように、急にいなくなってしまうことがあります。僕はここ半年〜1年ほどで非常に仲の良い人2人と連絡がつかなくなりました。

2人ともリアルでがっつりつながりのある(何度も遊び、1年以内に会ってもいる)人で、住んでいる地域が違うからなかなか会う機会は多くないけど会おうと思えばいつでも、みたいな感じの人でしたが、急にLINEもTwitterもつながらなくなりました。1人はアカウントが消えたのですが、僕のやっていないSNSにはいるということを聞いて少し安心しました。もう1人は僕以外の仲の良い人たちも困惑しているようで、依然情報なしです。

浅いコメンテーターが言うようにSNS上のつながりが質として浅いものだとは思いませんが、強度としては大変脆いものだということを実感しています。やめるって前々から宣言する人って、だいたいやめないか復帰しますしね。

 

さすがに連絡を取れない友人たちの身や心境に何かあったのではとは思いますが、もし命にかかわることなら誰かは情報を持っているだろうと思って、無事を祈るだけにとどめています。本気で探そうと思えば辿るツテはないこともないのですが、いかんせん大げさな気がして行動に至ってはいません。後々これを後悔することになるのか杞憂だったと笑えるのかはまだ分かりませんが、後者であることを切に願います。

いずれにせよ、このことが「別れ」というものを改めて強く意識するきっかけになったのは確かです。もともとそうしたきらいはあるとはいえ、わざわざ文章を書いてまでコロナと卒業式云々に触れようと思ったのはこれが要因だと思います。

 

でももっと大人になったら、これがSNSではなく現実からの喪失になることが増えるんですよねきっと。幸いにして高齢の身内以外でその経験に立ち会ったことはまだありませんが、今回いわゆる「突然の別れ」を経験することができたのはまだしも良かったのかなと思います。(今回のは2人とも生きているだろうと思っているから言えることですが)

先述の2人についても、コロナが落ち着いたらそのうち接触を試みようと思います。

5月追記:1人は交流が復活し、もう1人も予期せぬ形で生存確認だけはできました。連絡待ってるよ)

 

コロナに生活を大きく揺るがされて目の前の生活にもがいている人や文字通り近しい人との別れを経験させられた人もいる中で、こういった「無くても死なない」ようなことを気にしているのもアレなのですが、人が生きていられるのは他の人がいて形はどうあれつながっているからだと思います。よく言われるように詰まるところ人間は社会的動物なので、生命があればいいというのは最低条件で、それ以上が必ず必要なのです。ついでに言えば、そうしたことを論じるのは余裕のある人にしかできないことです。

 

「人間が本当に死ぬのは人に忘れられた時だ」という言い回しがあります。本当にその通りだとおもうのですが、これについて思うことは、以下の数点です。抽象的な表現もありますが、色々考えて言葉を選んでいるのであえて説明は省きます。

①きっかけもなく忘れる/忘れられるということの寂しさ

②忘れられていないという状態は最低条件でしかないということ (生死にかかわらず)

③忘れなくても「人はいなくなることがある」ということ、そしてそれは違う形の「死」と呼べなくもないこと

 

春の陽気に日差しを浴びる機会を奪われ、出会いと別れの季節にはしゃぐ機会を奪われ、些末な悲劇(ex.花粉症)を嘆く機会すらも奪われて、何とも息苦しい今日この頃、改めて皆様いかがお過ごしでしょうか。

こんな時だからこそ明るく!というのもこんな時にまったく!自粛!というのも個人的には好きではなくて、自分の身と他人の身と社会の規律を守る範囲で自然体に過ごせばいいと思います。

 

暇な人、普段よりたくさんいると思うんですが、気軽に連絡ください。おしゃべりでもするか、オンラインで人集めて遊びでもするか、コロナ終わった後にやりたいことでも一緒に考えましょう。

こういう感じのこと言っててもめちゃくちゃ仲良い人以外から連絡来たためしってほとんどないんですが、連絡もらって嫌な気持ちになることはないのだけはお約束します。

 

それでは皆さん、こんな中でも楽しく過ごしましょう。

 

 

 

あ、今回書いたことって当然他の災害やテロなどでも同じことが言えますし、季節的なことで言っても3.11と同じだろ!って話になるんですが、文中にも書いたように当時僕はまだ中学生だったので、思考と経験の幅は今より狭かったということでご容赦ください。それでは。