げんろんのじゆう

人生は与えられたカードでの真剣勝負

ぼくは勉強ができない

ぼくは確かに成績が悪いよ。でも、勉強よりも素敵で大切なことがいっぱいあると思うんだー。

というような話ではありません。

 

冒頭に引用したのは山田詠美『ぼくは勉強ができない』のあらすじの一文です。小学校5〜6年生くらいの時に読んだのですが、今でもわりと覚えているくらいインパクトのあるいい本でした。中学受験の問題などにも度々使用されていますね。僕が読んだのはカバーデザインが確かこれ↓じゃなかったと思うのですが…

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

 

 

最近ではタイトルをオマージュしたぼくたちは勉強ができない週刊少年ジャンプで連載中ですね。こちらはラブコメですが、最近お色気路線に一層寄せてきててちょっとイタい。4月からアニメ化もするらしい人気作です。

 

まあそんなことはどうでもよくて、僕の数年来の切実な悩みが「勉強ができない」ことなんですよね。ただし上記2作品のタイトルが指しているところとは意味が異なります。得意不得意の差はあれど、いわゆるテストとかは人並みにできる方だと思います。

僕ができないのはその「テスト勉強」の方です。結果ではなく過程の方。

 

簡単に言うとものすごくサボってしまう。そもそもやることから逃げ続け、いざ取り組んでもすぐ眠くなることが少なくありません。うまく乗った時には数時間続くこともありますが滅多にありませんし、意志の弱さと集中力の続かなさが尋常じゃない。

もちろん知識を増やしたり解ける問題が増えたり試験でいい成績を取ることの喜びは知っていますし、感じてもいます。でもダメなんですよね。

 

中学受験の時は塾の宿題や毎日やる問題集をサボって嘘をついては親とバトルしてましたが、第二志望の学校に入れました。中高一貫校の。

中高一貫校ってことは高校受験がないわけで、目の前の定期テストをこなしてれば特段目の色を変えて勉強する必要ってないんですよね。附属の小学校から上がってきた子や親が熱心な子は中1のうちから塾や家庭教師を使っていましたが、うちはその辺のびのび今しかできないことをやれという方針だったのでのびのびやってました。

 

中2くらいでしょうか、当時の僕は部活とポケモン(ゲーム)に全てを充てており、簡単に言うと家で1分も勉強したくねーな…と思っておりました。オブラートの包み方が分からずお恥ずかしい限りです。

その結果、通学・帰宅の電車内と各休み時間に勉強をすることで誤魔化しにかかった訳ですが、幸か不幸かこれでそれなりの成績が保ててしまいます。

 

で、これが高3まで続きます。なぜならいつまで経っても勉強したくなかったので。

ただ誰でも分かるように、高3ともなれば大学受験が嫌でも目に入ってきている訳です。高3の春頃から塾に通い始め、部活も4〜5月頃の新歓期は行っても練習できないということでいよいよ勉強の態勢を整える時がやってまいりました。

 

ところが、できませんでした。やってもできないと言うより、やれない・続かない。なぜならこの約4〜5年間のうちに自主的な勉強のやり方というものを一切身につけてこなかったからです。「やればできる」という言葉がありますが、裏返せば「やらなければできない」。「やり方」を忘れた僕は「できなく」なってしまいました。「やれないからできない」のが実状です。

 

いわゆる大学受験の勉強は部活の大会が終わった8月頃から本格的にやり始めましたが、学校・塾の授業を除くと平均1日2時間もやってないと思います。何をもって本格的とするのか、難しいところです。言うて学校がない夏休みと直前期は自分なりには結構やってたつもりですが、それでも最長4〜5時間くらいでしょうか。

この部分だけを抽出すると「勉強しなくてもできる俺カッケー」みたいな風に受け取られてしまうのですが、これまでとこれからの文章を読んでいただければ一切そんなことを思う余地がないのはお分かりいただけると思います。

 

受験を意識するにあたり、まず9月にDSを納戸にしまい込み、僕の中高生活の半分を捧げたポケモンを納戸へ封印しました。ちなみに当時は5世代(BW2)です。思い出補正込みですが一番面白い対戦環境でした。新作のXYは特典目当てに予約だけして、届いた瞬間同じく封印しました。

ところがここで大きな転機が待ち受けます。当時僕は、周りの使用率10%もいないであろうガラケーユーザーでした。中1の時に買ってもらった携帯を修理しつつ使っていたのですが、故障してドコモショップに持ち込んだ際、ついにモデル在庫が切れたとの知らせ。親と相談し、iPhoneを所持することになりました。これが罠でした。罠ではないか。

 

完全に話逸れる雰囲気が否めないんですが、スマホって便利ですよね。特にガラケーと違うのはネットの海へのアクセス環境。小学生の頃にネットにはまりすぎてPC半禁止令を出されていた僕は、中高生当時Wiiインターネットチャンネルガチ勢でした。おそらくいないと思いますが、もしインターネットチャンネルをヘビーユーズしていた方がいればぜひ語り合いたいものです。

 

f:id:genuinegen:20190330210538j:imagef:id:genuinegen:20190330210635j:image この画面に懐かしさと高揚を覚えるのは多分僕だけ

 

とにかく一瞬で調べ物ができる環境が魅力すぎて、僕はすぐにスマホ依存症へと向かいました。iモードとかいうゴミ、何だったんだろう。

他にも、今までボタンポチポチして手動更新しなければならずタイムラグがやばかったTwitterが便利になったり、手軽にいじれるゲームアプリが増えたことも良かったです。受験期でなければ。

一応受験期ということでTwitterを離れる友達も多くいましたが、僕はTwitterを手放したところで浮いた時間を勉強に当てる未来が見えないというネガティブな理由から継続していました。また、英単語帳をカバンに突っ込んだままコツコツ進めてたキャンディークラッシュ(パズルゲームのアプリ)はステージ800台まで進めましたが、のちにデータが消失して泣きそうになりました。

 

ここまで書けば、ポケモンを封印したところで特に僕の勉強時間が大きく伸びた訳ではないことは伝わると思います。また、サボり続けたツケが回ってきて高校の成績が明らかに落ち始めます。45人のクラスで、高1くらいまでは一桁〜15位くらいをキープしていたものの高2で初めて20位に足を踏み入れ、高校最後の試験では30位を経験しました。驚愕しましたが考えれば妥当だったので、考えないようにしました。親友たちが裏で「かわいそうに、あいつは浪人だな」と話していたことを後になって知りました。

それでも自分なりにはちゃんとやってた(つもり)ので、センター試験で爆死した時は流石にヘコみました。が、そのまま一日0〜4時間の勉強を続けた結果、私立1・国立1の合格を手にすることになります。

 

しかし安堵したのもつかの間、母親から「合格おめでとう!でも浪人した方がお前のためにはいいんじゃない?」という言葉をかけられて絶句することになります。記憶を探りながら書いていますが、ぶっちゃけ合格おめでとう!の部分は言われたか定かではありません。

うちの両親は結果より過程を重視する方針で、「まったく勉強せずに1位を取るよりも全力でやって下半分の成績取る方がまだ嬉しい」「このまま勉強せずに大学受かっても学費は出さないよ」ということを常日頃伝えられていました。それでどうしてこうなってしまったのかは分かりませんが、とにかく浪人してもう一年頑張った方が長い目で見た時に僕のためになるのではないかという要件でした。まあ今の感想としては、浪人しても無為な一年を過ごすことになったろうなと思います。親には言えませんが。

懇願と説得を重ね、最終的には僕のことが大好きな先輩のお母さんがうちの母親に「いいんじゃない?」と言ってくださったことが決め手となり、晴れて進学を許してもらえました。両親と同じくらいその方に感謝していることをここに記しておきます。

 

そろそろ話を閉じてもいい頃なのですが、残念ながら大学編へと話は続きます。簡単に言うと、勉強不足で一年生前期から真面目に受けていた授業の単位を落としました。

僕の入った学部は単位は基本取れて当たり前、高い成績を取れるかどうか、といった雰囲気でした。そんな中で高校までのテンションを維持しているとどうなるか…と言っても別に授業に出ずに遊びまくっていたとかそういうことではありません。

必修第二外国語では中国語を選んだのですが、その中で先生が読み上げた文を書きとるもの+日本語の文を訳すものという形式の試験がありました。テスト当日、普段から真面目に授業を聞き、それなりにできる方だった僕はノー勉で普段と同じ時間に教室に向かいました。すると普段不真面目な人たちまでもが既に着席して教科書とにらめっこしています。えっそういう雰囲気?と思いましたが、今考えればそりゃそうな気がします。加えて、試験直前に先生から「部分点は一切ありません」との連絡がなされます。

中国語とこの形式の相性が最悪でした。中国語では日本で使われていない漢字や少し形が異なる漢字が多いうえ、文字にすると同じでも発音の高低によって語が全く異なるものがほとんどです。要するに、「聞き取れない」「単語が思い出せない」「漢字が思い出せない」のいずれかに引っかかった場合、その一問を落とすことになります。結果は27/85点でした。渇いた笑いが出ましたし、あまりの低さに忘れることができません。学生情報誌によればその授業の単位の取りやすさは最高評価だったこともあり、手応えからも「何とかいけるんじゃないか」という気持ちも少しはありましたが、点数を目の当たりにした瞬間からは「こりゃ僕が教授でも落とすわ」と潔く切り替えることができました。

 

まあその後は気持ちを入れ替えて試験勉強やレポートに対してそれなりにちゃんと取りかかるようになったので、評価こそ奮わなかったものの単位はほとんど落とさずに済みました。ただ、この「最低限のノルマをクリアするための努力」という姿勢が根底に染みついている以上、成長した訳ではなかったと思います。

 

就活でも面倒だから・怖いからという理由でキャリアセンターにもOB訪問にも行かず、SPI問題集は1/3周しかしませんでした。もしこれを見ている大学生がいたらきちんとやった方がいいと思います。

就活を控えたゼミの後輩に残すアドバイスにも「僕は面倒でやらなかったけどやるべき」という内容をいくつか記しました。頭では分かってるんですけどね。

 

社会人になってからも、先月と今月に◯◯3級と名のつく検定を2つ受けましたが、その癖は抜けませんでした。ひとつは合格してもうひとつも合格を確信していますが、どちらもしっかり腰を上げたのが一週間前、そして前日深夜から予想問題を1〜2周してできるようにして本番、という体たらくでした。

まあこの種の検定は小中高の勉強と比較して過程より「合格」という結果に価値があると思うのでいいんですが、いつか痛い目を見るだろうと思うと怖いです。一生帳尻を合わせ続けるというのもなかなかできないと思いますし、何より自分を誇りに思えない気がします。

 

好きなことを夢中になってやるのは簡単なんです。誰でもできます。これも言葉の上では「努力」ですが、本当に人の真価が問われるのって苦手なこととか難しいことにどれだけ取り組めるかだと思います。本当に僕が書くことではないんですけど、頭では理解しています。

その意味において、死ぬ気でor死ぬほど勉強した経験がないって、人間としての欠陥だと思うんですよね。勉強を勉強と思わずやってる人たちもいますが、僕はそれではないので。

「勉強」という語は「勉めることを強いる」と書き、本来は気の進まないことを無理にするという意味でした。それを知った小学生の僕は「じゃあ勉強が好きじゃなくてもおかしいことじゃないんだ!よかった!」と考えていましたが、今なら「だからこそ小さい頃にその習慣をつけておくべきだった」と思います。

一念発起という言葉がありますが、言うは易く行うは難しという言葉もあります。行うを易くするには習慣づけるか気持ちを向けるかしかありません。僕は意思が弱い・最低限はやるという自分の性質を理解しているので、最近では「検定に申し込む」「人を巻き込む」など、やらざるを得ない環境に身を置かせるよう努めています。

 

ここまで切々と自分のダメさを書き連ねましたが、これから自分が変わる気もあんまりしないのでちょっとずつ直していけたらと思います。

最後に言っておきたいのは、「受験を経てるんだからたくさん勉強したでしょ〜」「◯◯大学ってことは勉強できるんだね!」といった安直な思考はやめてくださいということです。自分なりにはそれなりに勉強したつもりでいますが相対的には全然ですし、僕の「いやいや」は真実95%+謙遜5%なのにそれを伝える作業が億劫すぎます。しかも説明しようとすると自分がいかにダメ人間かを伝えなくてはならないため、会社とか初対面の人相手に言いづらい… これ、最近の悩みです。

 

 

とまあ、そんなところで終わります。「ぼくは勉強ができない」、良書なので一回は読んでみてください。長くなりましたが以上です。

おわり